MESSAGE

社長にとっての頼れる存在に

大学在学中の「体育会応援部」がきっかけで、”経営者・企業を支える”という進路選択へ。
行政書士としての役割と併せ、地域の子育てに関わる活動にも積極的に参加し、経営者・企業・地域を支えるべく奮闘してまいります。

ごあいさつ

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資格

行政書士、上級心理カウンセラー、宅建合格者

経歴

子どものころ

昭和58年、愛知県名古屋市で生まれました。その後岐阜県中津川市へ転居し、さらに岐阜県多治見市へ転居。
3歳から高校卒業までを多治見市で過ごしました。

大学時代

早稲田大学商学部へ入学。大学では体育会応援部に所属。勉強はせず、部活三昧の日々。
「ザ・体育会」の精神を培ったのはこのときです。
当時、神宮球場の責任者を務めており、球場の来場者を増やすため、早稲田の商店街との企画を動かしていく中、「経営者さんって面白いな」「このお店がここに存在することには、見えない価値がある」そう考えるようになったのが、「経営者・企業を支える」というその後の進路選択(銀行、士業)に影響を与えました。

銀行員時代

卒業後はメガバンクに就職。当時はまだまだ珍しかった女性総合職での入行です。
「社会人としてのいろは」をメガバンクで培ったこと、「超・競争社会」に身をおいたことは、今の私の仕事の姿勢に影響を与えています。

結婚していた頃

銀行を辞めて四国は高松市へ。1度しか行ったことのない四国にいきなり嫁に行きましたが、人は親切で、物価は安く、瀬戸内海はキラキラしていて、ごはんは美味しくて(主にうどんと魚)、温暖で天候が良く、いいところでした。
高松では、市役所の嘱託職員として、障がい福祉課に務めました。
思えば、応援部でも銀行でも全力疾走できる人とばかり接していたように思います。相手のペースに合わせてゆっくり寄り添うことを学んだのが、この職場でした。
また「役所の内部」に入ったことが「役所の人」をうまく付き合う術を身に着けることにつながり、今の仕事に大変役立っていると感じます。

子どもを授かり専業主婦へ

子育ては親育てとはよく言ったもので、だいぶ大人になりました(私が)
毎日子どもとお出かけをしました。1日に公園2つ3つハシゴするのもザラ。
そんな中、国家資格を受験したくて、「独学で勉強できる」「試験時間が短い」という理由で行政書士試験を受験。何をする職業の人か知りませんでしたが、いざなってみたら楽しくて大当たりでした。
娘が2歳のときに元夫に東京転勤の辞令が出て、再び東京での生活に。

行政書士になってから

3歳の娘を連れて離婚。岐阜県に戻ってきました。
高校までで地元を出てしまっていたので、ロクなコネもなければ、お金も本当になくて、行政書士経験どころかまともに大人としゃべった記憶もないくらい(専業主婦で夫とは会話がなかったので)なのに、無謀にも行政書士で開業。
もちろん悔しいこともあったけど、楽しいこともたくさん。
私自身はヒト・モノ・カネなんてたいして持たない小さな個人事業ですが、準備して許可を取って事業を始めて、拡大路線の変更申請や問題解決も一緒にやらせていただいて、経営者さんの夢に乗っからせてもらうのは楽しいです。
「別の行政書士さんは1年かけても申請できなかった」と言われた案件を1カ月で申請に導いたり、大きな士業事務所さんが大問題にしてしまった案件を解決して会社さんとしては元の予定どおりに事が運ぶようにしたり・・・
社長に「もっと早くに出会いたかった」と言っていただくのが喜びです。

まだまだ若いので、どんどん修羅場をくぐって実績を積んで、社長にとっての頼れる存在になりたいです。

地域社会での活動実績

子どもとの2人暮らしはもちろん大変なことがたくさんありますが、離婚のときに決意した「忙しいお母さんでもいい、この子にかっこいい大人の背中を見せる」を実践するために、仕事だけでなく、あれこれやっています。

  • 多治見市教育委員
  • 多治見市教育基本計画策定市民委員会 委員
  • 多治見市教育行政評価委員会 委員
  • 多治見市子育ち支援会議 委員
  • 多治見市総合計画市民員会(第七次総合計画) 委員(副会長)
  • 多治見市事業評価委員会 委員(副会長)
  • 多治見市行政改革懇談会 委員(副会長)
  • 多治見市女性活躍会議 委員
  • 多治見市男女共同参画推進審議会 委員(副会長)
  • 多治見市民病院指定管理評価委員会 委員
  • FM PiPi 番組審議会 委員
  • 多治見商工会議所 女性部 (監事) ※令和3年に設立(設立メンバー)

その他、子どもの関係では学童保育の保護者会会長やPTA本部役員、

青年会議所では委員長、専務理事、副理事長、理事長、日本青年会議所の内部会計監査人(副代表)など。

開業したときには「娘が大学に行けるように」「娘と私が生きていけるように」と思っていたのに、目の前のことをやっていたら、いつのまにか「娘と自分」だけを見るステージが終わって、地域や日本社会の子ども達、女性たちのことを見るようになってしまいました。

いろいろな役をいただいて、身近な部分なら『仕組み』を変えるのに少しは力を出せるようになって、

「子ども自身が自分では選べない環境(親の忙しさやお金のこと、身体のこと)が理由で経験できることが制限される」

がひとつでも減ればいいと思っています。

そうなれば、子ども達も、女性たちももっとチャレンジできる世の中になる。